Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

月別: 2017年4月

君と僕の公立入学式。-そしてお別れ-

2017/04/13 0:00

公立中学の入学式当日、容赦ない雨と風のなか、君の制服姿は玲瓏としていた。まさに、華に風だったね。

だのに、新入生の初々しい表情とは裏腹に、式自体は見るも無残だった。
在校三年生に向かってマイクで大声を張り上げる学級主任、新一年生の名前を間違えて読み上げる担任の先生、来賓のあいさつ中、ずっと雑談している父兄まで散見され、好事魔多しである。

私立中学のそれとは、もはや品の格差が桁違いで露呈されたようなものだ。
だから君は、これからしっかり勉強しないといけない。
人は、普段から頭を使っていないと、怖くなって無駄な言動が増える生き物なのだ。

PTA会長が祝辞の中で、「ダイヤモンドの原石」を引き合いに出し、いい話をしていた。
ダイヤモンドを研磨するのは、ダイヤモンドしかないと。
だから人を研磨するのも「人」という友情しかないという内容で締めくくった。

ただ、君に勘違いしてほしくないのは、その「人」とは、友だちや先輩、先生や親など周囲とのコミュニティを指すのではない。それらは単なる魔物だろう。
人を研磨するのは、祖先の叡智だけである。
つもりそれは本という魂だ。

祖先が残した「公律」の知恵をまず拝借させていただく。
その上で、自分なりの「私律」が自ずと生まれるようになるという意味だろう。
人類が積み上げてきた土台なしで、個性なんかあったものではないということだ。

今日からお互い、公律の学びに切磋琢磨、励もうではないか。
手に入れるのは、本物だけにしよう。

僕がそう言っているのだから、間違いない。
だって、本を読み漁りながらブログを綴っている毎日が、素敵な偶然の連続だったのだから。

 

P.S.
ある人のように、呼吸の如く文章を書けないことがもの凄く悔しい。
また書き連ねたくなる日まで、しばしのお別れです。

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百聞は一枚に如かず。

2017/04/12 0:00

近所のあるお母さんが、ぼやいていた。
「あそこの市の空地を公園にしてほしいんですよね~、みんな前から言っているんですよ」
「じゃ、作ったらいいじゃないですか」
「でもどうやって?」
「役所に言えばいいんじゃないですか」
「何て言うの?」
「『ディズニーランドほどのレベルは要りませんが、名前だけ豪ジャスな公園を作ってください』と言えばいいじゃないですか」
「もぉ、それが言えないから困っているんですよ~」

おかしな人たちである。
公園を作りたいと言いながら、全く動いていないのだ。
役所に言えばいいことまでは薄っすらと分かっていても、それを先陣切ってやらないところが凄い。
それに、女性の「困ってるの~」は危険だ。色気で囁けば、男性が「よし、俺に任せろ」なんて動くくらいに思っている。だから、この場合ほったらかしたほうがいいだろう。

仮に、うまく乗せられたお父さんが息巻いて役所に行っても、撃沈するのは目に見えている。役所が日々、どれだけ「断り文句」を勉強しているか知らないでいるのだ。
住人の要望から逃れるために、日々鍛錬しているといっていい。
それはそうである。いちいち聞き入れたら、キリがないのだから。

最近、役所の窓口がやけに笑顔を振りまくようになった。それでも、ちょっと目立たない課に行けば、昼休みになると、灯りを薄暗くして隅の方でお弁当を食べていたりする。昼休みには受付しないというあからさまな態度で、まるでハムスターが三つ葉を食べているくらいに密やかだ。それも仕方ない。役所の人だって、昼休み時間は限られている。つまり本質は旧態依然のままなのだ。

相手を動かすのは紛れもなく言葉である。
それは間違いない。
だけど口頭だと、数秒でしゃべれてしまうし、証拠が残らないという観点から軽視されやすい。しかもフェアじゃない。

どの世界でも、相手の心を動かすのは書面である。
いや、書面しかないだろう。
様式とか、細かいことはどうでもよくて、A4の白紙に思いのたけを綴ればいい。
そして、それを見た相手が返答する必要が全くないというところが、またフェアなのだ。

いくら返答がなくても、書面を送りまくって、まず俎上に載せないといけない。
映画『ショーシャンクの空に』のように、刑務所内に図書館を作らせるには、何百通も手紙を送って、まずは熱心を時間と交換した実績が必要だ。

ちなみに僕は、相手に書面を送って何ら返答が無かったら、「ゾクッ」とするくらいに嬉しくなる。

 

P.S.
昔は、漢字そのものよりも「よみがな」を重んじた。
「俎上」と「訴状」、きっと同じ意味だ。

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君の声。

2017/04/11 0:00

飲食店なんかで、親子でじゃれ合ってる家族を見掛けると微笑ましい限りだ。
「あら~、よっちよちよち~」
どこからそんな声が、というくらいに、お父さんのあまーい声が店内を包む。その子も「キャッキャ」言って嬉しそうだ。

それにしては、あまりにもべったりである。ムツゴロウ先生といい勝負だ。
近寄れば、他人の自分までも抱っこされかねない。いや、一回くらいなら抱っこされていいかもしれない。そんな空気だ。

単身赴任中でたまたま帰省しているのだろうか。
つい会社の机に家族の写真を飾ったばっかりに、他店に飛ばされたかもしれない。
つい上司よりも、いい家を建てたことを同僚に自慢したばっかりに、ローンが払い終わる頃にしか帰れなくなったのかもしれない。

こういった光景を見るたび、要らぬ心配をしてしまう。
仕事上、自分は単身で赴任してくる旦那さまをたくさん見てきた。
もちろん環境に馴染んで働く人がほとんどだったが、それでもやっぱり脱落する者が僅かながらにいる。

そして、その少数派のほとんどが途中の仕事も放棄して、社宅の家財道具も残置して突然逃げるのだ。
そこで一番印象的だったのが、逃げた者の9割は、家族の写真も置いたままにしていく事実だった。最初は不思議でならなかった。
逃げるにしても写真一枚くらい、かさばらないだろうに。
後片付けをしながら、「写真だけでも持って行けよ」なんて思っていた。
家族の元に帰ったわけでないことは、なんとなく察することができたから「今後どうするつもりだろうか」なんて、心配していたものだ。

しかし今思えば、それは傲慢だったのだ。
逃げる人だって、相当の決意があったに違いない。
夜、疲れて社宅に帰っても、一人ぼっちだ。家族の写真を見て、なんとか頑張ろうと自分を奮い立たせる。それでも、やっぱり限界だった。
つまり、その人も傲慢だったからだ。

自分がいないと家族が路頭に迷う、大黒柱である自分だけが頼りなんだ、なんていう発想自体が傲慢なのだ。それに気付いたのだ。

家にいつも居るお父さんがリビングでしかめっ面だと、それはそれで面倒くさい。
でも遠くにいても、生気の抜けたお父さんを想像するだけで、子どもは居た堪れない気持ちになるのだ。親子の気持ちは伝わるということだろう。

逃げる前夜、きっとこのお父さんの耳元で、子どもが囁いてくれたのだ。
「自分らしく生きなよ」って。あのときの、あまーい声で。

その日だけは、楽しい夢を見たに違いない。
そして朝、そのまま駆け出したのだろう。

夢の続きを追い求めて――微笑ましい限りだ。

 

P.S.
お父さんも、キャッキャ楽しもう。

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数歩の気づき。

2017/04/10 0:00

家やお城の「基礎」というと、どこかガッチリしたイメージがある。
なのに、勉強の「基礎」となると、どこかすっぽん軽いイメージがあるのだ。

誰しも、「勉強は基礎が大事」と口々にしても、「家は基礎が大事」なんてイチイチ言わない。
後者は、重々承知だし、前者はあまりにも連呼され過ぎて、ありきたりのセリフとして風化されてしまったのだろう。精神的な面と、物理的な面、実際目で確認できるぶん、後者が圧勝といったところだ。

さて、小学校の授業内容が話題になったときに、「え?もうそんなところを勉強しているの?」なんて、よく思うときがある。
自分は国語がさっぱりだったから、「『スーホの白い馬』って、いい話よね」なんて話しかけられても、SUUMOしか頭に浮かばなかった。
他にも、本を買って読む世界だと思っていたことが、実はあっさりと小学校で学んでいたというわけだ。だからって、「やっぱり基礎は大事なぁ~」なんて思わない。むしろ、「まだまだ面白い話がたくさんあるんだ」と、ルンルン気分になる。

スポーツでもそうだが「今更、基礎なんて~」と蔑視するというよりは、そもそも基礎が何かが分かっていないのではないか。

仮に、家の基礎に欠陥・瑕疵があれば、やり直しを命じることができる。
戸建てであれば、ベタ基礎、マンションであれば、杭基礎のやり直しだ。
でもやり直すのは、自分ではなく施工業者である。

しかし、勉強やスポーツに関しては、自分でやり直しをしなければならない。
もし20、30代であれば「アパート構造」で、40、50代だと「マンション構造」で、60、70代だと「よろこんで」だ。
そのときまではヤワな土台であろうと、かろうじて建っていた状態なのだから、基礎からやり直しなさいと言われても、いまいち腑に落ちないだろう。

一方、いくら基礎だけ固くても、建物の具材がなければ、相撲の土俵みたいだ。この具材というのが、つまり「創造」の分野になるだろう。

だから基礎は学ぶというより、創造しながら気付くものだと思っている。
つまり、生涯ずっと基礎だ。
西暦2017年までが人類の基礎だし、永久に基礎だろう。
それは、上から砂を垂らして、山すそを拡げるイメージである。
あとは涙で固め、悔しさで深化すればいい。

むろん、小学生の勉強は大事だ。
そしてもっと大事なのは、初心である。
ちゃんと山の真上から、砂を落としているかどうか。初心に帰るというは、そういうことだと思う。
ズレの気付きから、「築き」が生まれるということだ。

 

P.S.
ちなみに世界一高い山は、海の中にある。(by 小学生の授業)

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甲斐花宣言。

2017/04/09 0:00

桜がすっかり咲き乱れている。あとは散るだけだ。
駐車場の目立たない隅のほうで先陣を切ってほころんだ、今年初の桜を見てから、随分経った。
そのときは感激だったけれど、「もう少し遅ければ、他の桜たちと一緒に咲けたのになぁ」なんて余計なお世話にふけっていたものだ。

寒暖の差もあるから、花見そのものをやろうと日本中を駆け巡れば、機会は確保できる。
それはまるで、受験日が異なった大学を津々浦々と何十校も受験するかのように。

早咲きは、推薦入学が早々に決まった人になるのだろうか。
ちょうど今、絢爛に咲く桜は、志望校に無事入学していく人のようだ。
一方、まばらに咲いたまま、あっさり儚く散るのは、幾分不満のある入学だったのだろうか。
雨が降ったくらいで、軟弱に散るものいれば、酔っ払いにビールを掛けられても、豪胆に咲いているものいる。

中には咲くのが極端に遅い種類だっている。
「あっ、まだ桜があるー」なんて、一応は喜んではもらえても、漏れる言葉には「まだ」が付くのだ。まるで、あからさまに残業をアピールしている人や、言い訳している新入社員にも見えなくもない。

まぁだからこそ、桜がこよなく愛されるのであり、普段、花に興味がない人であっても、桜にだけは心を揺さぶられるのだ。
それはどこか人間と似ているからだろう。

今年、近所の庭で、毎年咲くはずの桜がまったく咲いていないのを見かけた。
自分を柿の木と間違えているではないかというくらいに、ひっそりとしている。
もしかすると桜界にも、付き合いというものがあって、毎年渋々咲いている節があったのではないか。今年はさすがに嫌気が差したのかもしれないし、留年中かもしれない。

でも、これがまたいいのだ。
タイミングというものがあるだろうし、虎視眈々と休眠する時期があって必要だろう。
人間界にだって、ときには裏切っていい事柄があるのだから。
それは自分を大切にしているという証であり、甲斐性でもある。一貫性のない自分を含めて愛されるべきなのだ。

情に流されず、周囲に合わせることもなく、ときには、パッと心の中だけで弾ける勇気も必要だ。
絢爛豪華もいいけど、質実剛健もいい。そのギャップこそ、まさに勇ましい。
来年はパッと咲いて、さっと緑の葉をつけることだろう。

 

P.S.
「こんど、菫(すみれ)の『アイス』が始まりますよ~」
どれだけ別のメニューで裏切っても、菫しか飲まない人だと思われている。

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奇跡は、どうかしている。

2017/04/08 0:00

会話する相手が、それなりの身なりで、丁寧な言葉遣い、仮にちゃんと名刺を渡されても、一発でアウトというときがある。

耳のピアスの痕だ。
個人的な主観なので、まったく気にしない人もいるだろう。
が、こうして文章にするだけでも、「跡」ではなく、「痕」という字を使ったほうが適切なほどに、それはけして微笑ましいことではない。

女性ならまだしも、男性のいい大人でその跡があると、何を話しかけられても、全く耳に入ってこないのだ。それはだぶん、嫌悪するというよりは、「あっ、この人は耳が要らなかったんだな」と思ってしまうからだろう。
もし口にピアスの痕があれば、「あっ、この人は口が要らなかったんだな」と思い、こちらからは何もしゃべることはない。
もし鼻ピアスであれば、「あっ、鼻が要らなかったんだな」と思い、口だけで呼吸するだろう。

髪だって、白髪隠し以外の理由で染めていれば「髪が要らなかったんだな」と思われ、禿げている相手だと反感まで買われるだろう。
それでも一応は、その場に居合わせる相手の容姿や立ち居振る舞いを真似してあげようとは思うものだ。
いや、もしかすると、その人も違う誰かの真似をしている最中なのかもしれない。

たとえば、映画『インサイド・ヘッド』のキャラクターの5人、『ヨロコビ』、『イカリ』、『ムカムカ』、『ビビリ』、『カナシミ』たちの肌や髪の色が、各自一色なのに対し、主人公『ヨロコビ』だけは、髪の毛だけがなぜかブルーで、体の黄色と異にしていた。

上映中、なぜなのか気になりつつ、最後までそれには一切触れないから余計に気になって仕方なかったが、つまりそういうことだと思う。

相手に気付かれないよう同化した「優しさの跡」だ。
『カナシミ』は全身ブルーだったから、それを見た『ヨロコビ』は、せめて髪の色だけでも、真似して分かち合うとしたのではないだろうか。うまくは伝わらなかったが、それでもなんとか励まそうとした。しかし『カナシミ』のほうは、それに最後の最後まで、気付くことはない。

おそらく『ヨロコビ』がいなくなった後に、ようやく気付くのだ。
すると、今度は『カナシミ』の体が『ヨロコビ』に一転するのだろう。もちろん色だって黄色に変われる。

あらゆる生物は、この同化のリレーだと思う。
残念なことは、お礼を言いたくてもその相手は、きまって仲違いした後か、既にこの世にいないということだ。
7年前の星の光が地球に届くころには、既にその星は存在しないみたいな話で、微笑ましいけれども切なくもある。つまり喜びと悲しみは、対の関係なのだろう。

ひっきょう、「跡」も「痕」も対なのかもしれない。

 

P.S.
弟子が師匠の風貌や仕草をあからさまに真似するのに対し、
師匠は、そっと一つ弟子の欠点を真似をしてあげている。

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いい人探し。

2017/04/07 0:00

賃貸の部屋を借りようとするとき、どうやって探すだろうか。
今は、大手サイトのSUUMO、アットホームなど、なかには春の応援10万円キャッシュバックフェアと銘打ったサイトも散見され、消費者の目移りに余念がない。

あれはネットだけで探し始めると、とにかく時間がかかって仕方がない。
最初は理想だけが膨らみ、次第に現実味に戻り、そしてまた理想に返り咲くといった、この浮き沈みのなかを行ったり来たり繰り返すから、絞り込む作業というより、広げる作業をやっているようなものだろう。
仮に、目ぼしい物件を見つければ、前乗りして下見くらいまではする。それでもやはり決心がつかない。よほどの気概がないと、とうとう最後は面倒くさくなって「今のままでいいや」となるのが、おおよそのオチなのだ。

昔のお部屋探しは、まず不動産の窓口に足を運ぶのが、慣例だった。
しかし今は、ネットの物件情報があまりにもリアルタイム過ぎて、もう街の不動産屋は必要ないと消費者側が勝手に淘汰してしまっている。

しかし、ネットの普及で、情報が乱立するからこそ、街の不動産屋が大切になった、と思っている。街の不動産屋といっても、老夫婦がやっているようなお店ではなく、毎年、新卒を採用している県下で有数の会社を指すのだ。

彼ら営業マンは、とにかくさばく件数が半端ではない。
お客さまを一目見ただけで、どの部屋を選ぶかはだいたい想定できるまでに目が卓越してしまっている。お客さまがいくら口では、「えーと、希望は・・上層階、南向き?そして眺めがいいところ」なんて伝えても、内心では「はい、はい」とだけで聞いているだろう。

で、実際内覧して、
「ここに決めます!」
「え?でもお客さま、南向きをご希望でしたよね、しかもここ2階ですよ」
「え、まー、でもここがいいです」

こんなやり取りは日常茶飯事で、しかも内覧した部屋というのは、営業マンが薦めた部屋である。結局、そのお客さまに元々希望なんてないことを見抜かれていたということだ。それは、人が本気で譲れない部分があるときは、たった一つだけだからだろう。もし二つ以上あれば、二つともウソであり、三つ以上あれば、部屋探し自体がウソかもしれない。

本当の現実は、営業マンだけが知っているということだ。であれば、一任するべきだ。
当然営利企業だから、自分たちの管理物件を薦めてくるだろう。でも管理物件だからこそ、隣戸にどんな人が住んでいるかを逐一把握できている。
この人は誠実だなと思えば、100%その物件を信じていいと思う。
そして入居後、その営業マンから御礼のハガキが来たら、200%信用していい。
これは実際の話である。まだ若いスタッフなのに律儀にハガキを出しているのだ。

また引越しするときは、是非そんな営業マンを介したほうがいいし、独立でもしようものなら、信者になっていいと思う。
心の応援フェアは、されるより、しているほうがずっと楽しいのだ。

 

P.S.
半信半疑ではなく、全身全霊のお任せ。

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壊れかけの仕事人。

2017/04/06 0:00

先日、パソコンが壊れると、ついでに部屋の冷房も壊れ、温水器、愛車のサイドミラー、近所の犬、ジャンガ、一つが壊れると立て続けに壊れるものだ。
賃貸であれば、管理会社に伝えるだけでオーナーが必要費としてカバーしてくれるが、自己所有物件であれば、普段からメンテに目を光らせないといけない。
もし壊れれば、自分でメーカーの修理センターなどへ問い合わせすることになる。

だいたい、この「センター」という名称からして、たらい回しの代名詞ではないかと思うときがある。何を聞いても、「そうですね・・ちょっと現物を見てお見積りをしてみないと・・」の受け答えで、すぐに症状が判然としないし、センターの趣旨は、とりあえず現物を送ってもらうか、各支店の担当を現地に派遣して、詳しいことは、その担当に聞いて欲しいという御用聞きサービスだ。誰しもが、急用で病院に電話するときは、まずは、ある程度の病名や原因を知りたいときだろう。

こと住宅設備の修理に関しては、とにかく面倒くさいイメージがあるのだ。
そして、来る担当までもが、どうにかして新品に替えてもらおうと躍起になるから、このやり取りがまた面倒くさい。出張費を取る以上、もう少し気の利いたことが言えないものだろうかと思ってしまう。

モノというのは、買ったときの喜びより、直ったときの喜びのほうが大きいものだ。「あー、直ったー」と心から感激の声が溢れ出て、涙腺の緩い人だったら、本当に泣く人だっている。

であれば修理は、モノ創りと同等、もしくはそれ以上であろう。
修理して直ることで、さらにそれを使い続けるわけだから、愛着という意味では充分に有益費として見ていいし、プロあれば、「新しい商品に替えたほうがいいですね」なんて言葉を発するべきではない。それは、主治医から、「来世に期待しましょう」と言われるようなものだ。

そして、今までいろんな営業マン、サービスマンを見てきて思ったのは、どんな下請け孫請けであれ、最初に名刺を差し出してこない人に、まともな人がいなかった。
風貌や言葉遣いがそこそこでも、必ず最後にボロを出す。つまり最初から自信がないのだ。

ある人が、「名刺を持てるだけでも有難いこと」だと言っている。
少なくとも会社側からは、「こいつだったらお客さまに会わせてもいい」と太鼓判を押してもらっているし、認めてもらっているわけだ。

しかも会社は、余程のことが無い限り、ギリギリまで使ってくれるし、叱咤激励で育ててもくれるのだ。従業員が先に愛者精神をちょうだいしているといっていい。

ただ、一人が完全に壊れれば、周囲にまで連鎖する。
であれば、そうなる前に自分から身を引くのも、立派な愛社精神といえるかもしれない。

 

P.S.
名刺は、プロ意識の代名詞。

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セオリーロボット。

2017/04/05 0:00

携帯電話ショップの店先では、白いロボットがあいさつをしてくるようになった。今では、アパレルショップやお好み焼き屋など、いろんな店舗にもいたりする。

しゃべりながら首を振るロボットが、胸にスマホを付けているだけにしか見えないが、子どもは物珍しがってはしゃぎ、親子で触れあっている姿を目にすると、客寄せパンダ的な存在ではあるのだろう。

ただ、ロボットの位置づけがよく分からない。
いくら「感情を持つロボット」と銘打っても、これが本当に、ん十年後には人間的対応を代替できるかは未知数だ。こぞって20万円前後の小型ロボットも出ているが、家庭に一台あると変に家族の情が移り、旦那さまへの情は軽薄になるばかりだろう。アイボだって、生産が終了したときは物議を醸したくらいだ。

それよりも、今の人間のほうがロボットに近いのではないだろうか。
雑貨店などのスタッフが、脳天から尽き出たような声で「どうぞ、ご覧くださいませ~」と、お客さまと目を合わさないで、ロボットのように連呼し、飲食店でも、ロボットのようなサービスしかできないスタッフもいる。

先日、温水器の修理を依頼したときなんか、最初に型番を伝えているのに、管理会社の担当が代わる度、型番を聞いてくるから、リセットされたロボットのようだった。「これが私の対応です」とか、「私が最初から事情をお伺いします」という強い我欲を持つロボットなのだ。裁判官の「ここは私の法廷です」という発言に近い。
それだと、もう感情を持ったロボットとして人間サイドが代替しているではないか。常に進化と便利を求めるだけの生身ロボットだ。

 

実は、本物のロボットとは、既にいっしょに生活している。
それは、もう一人の自分を体系化したものだ。
たとえば、よく音楽アーティストのプロモーションビデオに出てくるようなロボットである。多くを語らず、カフェして、ダンスして、いっしょに過ごす楽しい日々だ。

心の中だけで、「問いかけ」と「応答」の一人二役をこなす姿である。つまりそれが自分自身の定位置だろう。

昔、駄菓子屋の店先にあったガチャガチャを思い出す。
小学校時代の登校中は、朝いつも「いってらっしゃい」と声をかけてきてくれたから、「いってきます」と返していた。

「今日テストだね」
「そんなの知らんよ」

「今日は家庭科があるね」
「あっ、裁縫道具忘れた!」

魂(soul)を吹きかけて擬人化できれば、すべてがオンリーロボットだ。
まさに、SFの世界なのである。

 

P.S.
セカンドランナーがサインを盗んだからといって、わざわざタイムをかけてまで注意する主審は、ただの生身ロボット。

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かし折りの効能。

2017/04/04 0:00

愛車や家を売るなら、一括査定・お見積りサイトがある。
他には、リフォーム、引越し、生命保険、ピアノ、太陽光発電、など多岐にわたり、会社のロゴ・HP制作などは、コンペ形式で一括して全フリーランサーに提案をかけることができるマッチングサイトがある。

これらのサイトは、随分定着してきたし、おかげで面倒な商談を回避でき、一応の相場査定金額を知ることができるようになった。さらに今は、申し込むだけでポイントまで還元されるシステムまであって、まさに消費者天国である。

誰しもが、これだけ「一括」を好むのに、支払いのときだけはことさら「分割」にこだわり、一方、人に会って話すことに関しては、言い訳してでも逃げ回るのに、怒るときだけは、「一喝」しようと必至に会って話そうとする。

さて、これらのサービスについて実際のところどうなのだろうか。
営業マンを選り好みしながら、平身低頭で訪問してくる瞬間を至福としている人もいるから、それはそれで需要があるのだろう。

ただ、一度、依頼の送信ボタンを押せば、その後は、電話とメールの嵐である。
「一括」とは聞こえはいいが、丸投げというよりも、個人情報「丸出し」を意味し、気持ちのどこかで、戦々恐々としていないといけない。連絡が全くこない業者が1社でもいれば、それはそれでずっと落ち着かないだろう。最後は1社に絞るのだが、途中までは、5社くらいと同時進行で受け答えする必要があるから、結構な時間を取られてしまう。

いざ仕事が開始されても当然、ぞんざいな扱いを受けるだろう。
高価な動産や不動産を売るなんて行為は、一大イベントなはずなのに、それを知り合いや友人に相談できず、やみくもにオファーを出しているのだから仕方ない。

しかも、業者やフリーランサーは当然、二流であるということだ。
たとえ名の通った企業であっても、ちゃんとその会社内部の窓際族部門の営業マンたちが控えているのだ。お互いさまである。

取引の相手と会わない利点を享受できるのは、実は、業者やフリーランサー側のほうで、仕事が最終局面を迎えるにつれ、どうしても会って話したくなるのは、消費者のほうなのだ。

結果、これらネット上で完結するサービスは、一つの教訓を得ることになる。
自分にとって一流の営業マンとは、貸しがある友人、もしくはその友人の紹介だということに。

車だと、名の通ったオークション会場に加盟している車屋を経営している友人、不動産だと、会員制スタイルで不動産屋を経営している友人、他仕事の依頼に関しては、直接クレームが言える同じ市内に住む友人にお願いするべきなのだ。

普段からこまめな気持ちの上での貸しが欠かせないということになる。
それは、一括とか分割の類ではない。リボルビングのような一定さだ。

 

P.S.
元旦に一括初詣ではなく、年中を通じてのこまめな参拝。

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1...最後
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