Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

一年生植物。

2017/03/27 0:00

言葉が深く身にしみるときがある。
クラス児童の一年間の思い出作文を冊子にし、表紙に担任の先生が短文を綴っているのだ。
そこには、進級のお祝いを兼ねていながら、まるで今回が卒業式であったかのような、どこかお別れのあいさつに近い言葉だった。

よく考えてみれば、小中学生は留年することがない。そういった意味では、毎年が学級ごとの卒業でもあるし、先生だって、担任最後になるのかもしれないのだ。

先生の文章は、実にシンプルだった。
『はじめてであれば、つまずいて苦しいこともあるけど、きちっと受けとめて、勇気をだして動きだせば、やってよかった思えるときがきっと来る。
〇年〇組担任:華吉 結実子(仮名)』

低学年に向けて書いた内容だった。
パッと見ただけで、子どもたちが気付くかどうか、先生自身の名前の読みや意味を、そっと散りばめていることが分かる。
優しくすりおろした果実のようなその文章から、ほのかに薫る先生の甘酸っぱい筆力を目で感じ取ることができた。

自分がまかり間違って先生になったら、こうなるだろう。
『平凡な毎日。以下同文。
3年B組担任:平々(ヒラオドリ)』

文章は、今の感興をもろに露呈するものだ。
やって良かったと達観することは確かにあって、それは希望でもあり、一種の力強さでもあるけど、一方で、同じくらいの脆弱さが口を開けて待っているときがある。

トボトボ歩いていても、全くダイエットに効果がないように、気怠そうに山を登っても、痩せるというより、やつれるだけだろうし、反対に、同じところをハムスターのように走り、30分程度の軽い汗を流しているジム通いの人たちのほうが自然で滑らかなくびれを描いているものだ。

ただ裏を返せば、たった一つの支えがあれば、人間はどんな苦しみにも耐えうることができるということではないだろうか。

アウシュビッツのユダヤ人たちは、毎日の朝陽を拝むことで、どうにか生きながらえた。眩い陽光だけが唯一の楽しみだったのだ。
そして、クリスマスの日には解放されるという、仲間うちで勝手な幻想を抱いたばっかりに、その日を超えたとたん、バタバタと多くの人が亡くなった。人は体力よりも、精神力だけで生きていると言っていい。

ある人も、「人は必死になった時点で、必ず死が訪れる」と言ったくらである。
そうすると、何かに精一杯になるときは、いつか力尽きるのだから、わずかな矛盾という改良を織り交ぜたほうがいい。

作文集を読むために今、とあるホテルにきているが、冷蔵庫に入れたサンドイッチだけ唯一の楽しみだ。
そして、必死に生きないよう必死にこの文章を書いている。
そんな、どこか矛盾するお話だ。

 

P.S.
「力を抜くと筆が躍る。平々」

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