Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

記憶懐柔ガメラ。

2017/03/19 0:00

卒業式、お花見、入園入学式など、春先は何かとデジカメや、ビデオカメラの出番である。
スマホでこれらを兼用できるとはいえ、厳粛な場面では、まだまだお目にかかる。

久しぶりに家のデジカメを手に取ると、中のデータがまったく思い出せない代わりに、本体がデジタルの「亀」でないことだけは思い出した。きっと、随分前の画像が残ったままだろう。
つい遡って「ピッピピッピ」、画像をコマ送りすると、感懐深い頃の写真が次々に出てくる。誕生日ケーキ、クリスマスケーキ、誕生日ケーキ、クリスマスケーキ。延々とケーキを繰り返し、子どもは成長してどんどん大きくなっていくのに、ケーキはどんどん縮小していく。あと10年もすれば、ハムスター用サイズになる予定だ。

画像を拡大して見ようと、ついスマホのように二本指で広げたくなるが、いかんせん旧型である。上下ボタンを「ピッピピッピ」、左右ボタンを「ピッピピッピ」、新喜劇の今別府さんを「ピッピッピッピッ」操作する必要がある。

過去のデータが全部収まる容量だけど、写真に現像するのは、ほぼ皆無である。データを保管するといっても、SDカードが小さ過ぎて、へその緒くらいにどこへしまったのか分からない。もし祖父母がいたら、入れ歯に挟まっても気づかないだろう。

ビデオカメラも然り。持ち出すとなると、三脚もセットで嵩張るのだ。しかも、その撮影係は世の旦那さまだ。いらぬ専権を与えられ、いざ家で鑑賞すると「もう~、ぶれてるんや~ん」と非難の嵐である。
もはや、家庭用のカメラ機器は、ケーキ以下の危機に追い込まれたのだ。

データを保存する行為は、お金を貯蓄する行為に似ていると思う。
持っているだけで、一様の安心は獲得できるからだ。
でも、両者を活かす方法が分からない。だから管理に走る。それにも経費がかかって不経済なのだが。
いや、キッチリ管理しようとすればするほど、鳴かず飛ばずなのだ。

記憶もお金も、ぼやっとして、ぶれたいたほうがいいのだろう。
そのほうが、いざっというときに発動してくれるというものだ。
何気なく開けた引き出しから、昔の大切な人の手紙が出てくるように。

今、目に映る事象を生で焼き付けて、また忘れた頃に思い出そうではないか。そのほうがより鮮明なのだ。
デジ亀くんたちも、そう言っている。

 

P.S.
スマホ「主」、デジカメ類「従」でも、記録は「従」、拍手が「主」。

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