Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

簡便は勘弁ならん。

2017/03/16 0:00

夕方、全然知らない子どもが「トイレ貸して下さい」と言ってきた。
なかなか見上げた度胸だ。
まだ、小学二、三年生くらいの子どもだが、他人の家に来て、一時使用貸借契約の締結を申し出ているのだ。たぶん成績は、クラスでトップだろう。
表情を見る限り、かなり逼迫している。よほど我慢できないか、ここを公衆トイレと間違えているかだ。

この子は運がよかった。自分は、紳士なのだ。二つ返事で家の中に入れてあげる。
しかし、玄関から先は動こうとしない。洩らしたか、ここは学校じゃないと気付いたかだ。
すると、「トイ・・どこ・ですか・・」とかすれた声で言う。
初めてで、場所が分からなかったのだ。
すぐさま自分も、「う・・知・らない・・」とかすれた声で返事してあげた。
本当に知らないのだ。なにせ、自分も今日初めてお邪魔する御宅なのだ。図々しさにかけては、自分もトップクラスである。

それからは、家人の者が案内してくれたおかげで、無事、事なきを得、帰って行った。
ここで不思議だったのが、用を足した後も、なぜあんなに疲れ切った苦い表情のままだったのだろうか。最初来た時と、あまり変わらない表情だ。声は小さくても、あっちは「大」だったろう。
であれば、もう少し堂々と、スッキリ爽快な顔をするところではないか。

そういえば、大人もそうだ。
飲食店なんかで、連れがトイレに行って戻ってきたら、見るも無残な顔になっているときがある。
便秘と格闘したのか、トイレの順番をめぐって他のお客さまと格闘したのか、紙が無くて神さまと格闘したのか、判然としないときがあるのだ。

「小」の後だったら、毅然とした表情なのに、それとはかなり対極である。
もしかすると、人間には「大」に対して、後ろめたい気持ちがあるのではないか。悪いこともしていないのに、警察がいるだけで、オドオド挙動不審になる場面を想起する。

しかし、怯むことはない。
犬を見よ。堂々と、しかも見えるようにわざわざ走っている車に尻を向けて、プルプルさせているではないか。
猫を見よ。砂場で、用を足した後とは全然違う箇所に砂をかけているのに、ドヤ顔でこっちを見ている。
鳥を見よ。さっき洗車したばかりなのに、もうフ〇をかけてきた。

少年よ。学校では、恥ずかしがらず、こまめにトイレに行くのだ。
生理現象を軽信すると、ろくでもないことになる。

まだ子どものうちはいい。大人になったら、
恥ずかしいのは、他人にモノを借りる行為だ。
かっこいいのは、己の欠点をさらけ出せる行為だ。

ある本にも、「成功とは、圧倒的な勘違い」とまで書かれている。
怯むことはないのだ。笑われてナンボである。

ふと自分も、己を顧みてみた。
「よく・・ここまで・・生きてこれたな・・」

 

P.S.
本屋に行くと、なぜかトイレに行きたくなる。
きっと、そこにチャンスがあるからだ。

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