Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

言葉のクラムボン。

2017/03/15 0:00

事件・事故が、いつなんどき我が身に降りかかるか分からない。
自分だけが気を付けていればいいという問題でもない。
もし、何らかの拍子で民事裁判となれば、いきなり、答弁書や準備書面を作る必要に迫られるのだ。そんなにいきなりなら、普段からちゃんと、「いきなり団子」と「いきなりステーキ」を食べてればよかったと後悔する。

ヒョイと弁護士に丸投げできればいいのだが、仮に、賠償金50万円で争うとすると、その弁護料は優に50万円を超え、もう勝っても負けても損は確定しているようなものだ。300万円であった場合でも、手許に残るのは僅かで、誰の為の裁判なのか分からなくなる。

仕事で忙しく、月一回の裁判に付き合っている暇はないという人はさておき、もし平日に希望の休みが取れるのであれば、ぜひ、本人でやってみる価値は充分にある。

要件事実なんてものは、ネット上や図書館を探せば、いくらでも落ちているし、出廷だけ忘れなければ、どうにかなるものである。
「書面の書き方が難しそう」なんて思うかもしれないが、実際は何を書いても、訂正されることなく受理してくれる。その人の主張を尊重するからだ。

どんな稚拙な内容でも、それを優秀な裁判官が、ちゃんと一読してくれるのだ。
二、三質問はしてきても、感想を述べてくることはまずない。
その裁判官が何を考えているか、表情から推測するだけである。
ここに裁判所の醍醐味を感じてしまうのだ。

我々の生活といえば、
「ありがとう」と言うと、すぐに「ありがとう」で返ってくる。
「この野郎!」と言うと、すぐに「この野郎!」で返ってくる。
こだまかと思いきや、あるときは、
「ごめん」には、「まぁ、今回は許してやろう」、
「最低!」には、「ありがとう」、
「山!」には、「川!」、
「ワン!」には、「ニャー!」。
統一性はなく、単にその場の気分に左右された返答や応酬に満足しているのである。
矛盾しても、批判さても、一応はかまってもらっているという安心感があるからなのだろう。

ひっきょう、人は一喜一憂なしでは、発信も受信も、し続けることができない生き物だ。
いつも黙ってウンウンと頷き、大事なところだけボソッとしゃべる人が主導権を握っていて、ペラペラよくしゃべるノンストレス者が一番格下だったはずだ。

言いたいことをグッと堪えた先に、穏やかな領域がある。
だから判決文は、スコンと腑に落ちるのだろう。

相手と戦ったのではなく、自分と戦ったからこそ、見えてくる世界だ。
たまには、自分の力で心血(審決)を注ぐのも悪くはない。

 

P.S.
時間と期日、本物の死守をここで学べる。

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