Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

小5がもたらす予期せぬ軌跡。

2017/03/11 0:00

昔のことで、いまいち思い出せないのが、生まれた直後と小学5年生の頃の記憶である。
教科書の表紙や担任の顔はもちろん、好きな女の子、あの最高行事であった給食のことすら思い出せないのだから、当時は親が代わりに通学していたのかもしれない。

多分その頃というのは、もうすぐ6年生になってしまう不安はあるけど、その他大勢の後輩に囲まれているという安心が大きくて、緊張感が無かったのだろう。

そういえば、小学生低学年の頃流行っていたのは、藤子不二雄のパーマンだった。
起きられない朝なんかは、「コピーロボットがあればな~」なんて、常々思っていたものだ。
憧れの余り、鼻を赤く塗って登校したこともある。
教室で、「今日、僕はコピーのほうだよ~」と吹聴すると、「あら、本物はおウチでお留守番?」なんて、クラスの女の子は信じてくれたものだ。
調子に乗って、次の日もルンルン気分で鼻を赤く塗った朝は、なんと日曜日だった。
今思えば、軽くあしらわれていたのだろう。女性は子どもの頃から賢いのだ。たぶん男性の6,600倍は賢いだろう。

先日、家の押入れを整理し、ふと出てきた小学校時代の写真を懐かしんでいると、その人たちがなんと、5年生のクラスでないか。そんなはずはない。もしかしたら、写真の中で移動したのか、間違えて医学部5年生時代の写真が紛れたかのどちらかだ。とはいえ、過去の経歴を振り返っても、無免許でお医者さんごっこをした記憶しかない。ということはやはり小5だ。

人の記憶というのは、前後にバラつきが出るのだろう。
概して思い出がないと思っていた頃のほうが、一番の思い出になっていたりするということだ。

胎内にいたときだって、親たちの会話や心の叫びを聞き、意味は分からなくとも、ちゃんとそれを含蓄したうえで、今を生きているはずである。

初めて会った人や場所なのになぜか懐かしい、そんな場面に遭遇するときも、遺伝子を代々のコピーと考えれば、祖先まで想いを遡及しているからだ。

整然とした記憶よりも、直感的な導きが大切になってくる。
ふと会いたくなった人がいたら、その人の身を案じてすぐに会いに行ったほうがいい。
ふともう一度行きたくなった場所は、もうそこはすっかり変わり果てているかもしれない。

人間の体も宇宙からの借り物だ。いずれ、バードマンに返さなくてはいけない。
そう思うと、押入れを整理している段ではない。
今目の前にあるものを大事にしていこうではないか。

 

P.S.
小5の通信簿が出てきた。
思い出せないのではなく、思い出したくなかったのかもしれない。

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