Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

純粋度100%の人間。

2017/03/07 0:00

たまには~ケンカ~に~負~けてこ~い~♪
昔懐かし、東雲堂のにわかせんぺいのCMだ。
自分がその会社の社長だったら、味はもうどうでもよく、パッケージに力を注いで、純金製を大量販売していたかもしれない。

このCMは、当時衝撃的だった。
ケンカに勝ったと思われるジャイアンみたいな子どもが謝りに行った先は、自分よりも明らかに弱そうなのび太の家だ。
「たまには」というぐらいだから、普段は全勝である。どう負けるのか見物でも、単に「ごめ~ん」と猫なで声を出すだけである。

第一、 そんなふざけた「ごめ~ん」は、「また、いじめさせてね~」と同義である。
第二、 あれで、学校の横開きドアに黒板消しを挟むイタズラが流行した。
第三、 人ん家のドアを勝手に開けるな。

よって、二人は似た者同士であり、互いの謝罪に疑義をもっても差し支えない。

 

これを観て自分はごめんの代わりに、「ありがとう」を連発するようになった。
親にお茶を入れてもらって、「ありがとう」。
親にランドセルを背負わせてくれても、「ありがとう」。
親に靴下をはかせてもらっても、「ありがとう」。
宿題を友達にしてもらっても、「ありがとう」。
どんな些細な優しさにでも、「ありがとう」が言えたし、「さよなら」も言えた。

だのに、お年玉を貰うときは、思わず無言になったし、「助かった~」と安堵した。
大人でも本気で嬉しいときは、絶句するのではないか。
そうなると、「ありがとう」とは、単に「程度」の問題に帰結する。

巷に出回っている本には、「ありがとう」よりも「ごめんなさい」が言える人になろう、と書かれている。
それまでは、アンチごめんだったから、かなり動揺した。
急きょ、「ごめんなさい」連発くんにシフトしようと思ったが、これがなかなか言えない。
こんなことなら、謝罪の黎明期時代に身に付けるべきだった。

ただ思うのは、なんとか気合いを入れれば「ごめなさい」も言えるものだ。
いや、実は心の奥の些細な利益を掘り起こして、それと符合したからだ。
そこで謝罪するのは、純金箱のパッケージみたいではないか。

本当に申し訳ないと思ったときも、人は絶句するのではないか。
それがバランスというものだろう。それに、表情や動作だけで充分伝わるものだ。

取り返しのつかないことをやってしまったからこそ、本当の意味で反省ができる。
やっぱり人生も、中までぜんぶ食べてみるまで分からない。

 

P.S.
「ありがとう」「ごめんなさい」は、共用と教養の問題。

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