Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

白紙から生み出そう。

2017/03/05 0:00

白紙は、いいものだ。
新年のカレンダー、子どものお絵かき帳、システム手帳、ハガキ、便箋、どれも白紙のときは夢がある。
ひとたび、筆を下せば、その人のオリジナルがにじみ出る。

他には、委任状、借用書、婚姻届、どれも白紙であっても夢がない。
こういったものに捨て印を押そうものなら、もう人生捨てたのも同然である。
冷や汗だけで、血も涙もない。
小切手のように、白紙のままが一番いい状態のものだってあるのだ。

運動や勉強もそうだ。
やればやるほど、体や頭が真っ白になる。
腕を磨けば磨くほど、赤ちゃんの後頭部のように、部分禿げてくるイメージだ。

たとえば、バットの素振り500回を超えたあたりから、フワッと体が浮くように感じ、まるで自分じゃないような鋭い振りになる。体が最小限かつ瞬発的に動く感じだ。なんなら、飛んでいるハエでも打てそうだ。

投球も、500球超えたあたりから、わずかな力でスッと速く投げられるようになる。
でも投げたことはない。付き合ってくれる相手がいないからだ。
もし投げれていたら、あまりの速さに、目で確認することができなかっただろう。
そして耳をすましてごらん。遠く彼方から聞こえてくるのだ。カミナリおやじの怒鳴り声が。誰もコントロールまで保障するとは言っていない。握力が肩についてこれないのだ。

勉強だと、連続12時間を超えたあたりから、意識が朦朧としてくる。
これなら、お酒を飲んでいたほうがよかったと思うくらいだ。
でも睡眠を経た翌朝、頭がスッキリして、噓のように思い出すではないか。なんなら、小学校時代、友だちがよそ見している隙に、給食を横からつまんだことまで思い出す勢いだ。

このように、疲労の極限に達したとき、何もかもが真っ白になる。
つまり、無になるのだ。

でも「無」こそ、実は「有」である。
言葉や想像で語れない先にこそ、本物の形があるということだ。

人は、すぐに後悔し、できれば過去の汚点を白紙に戻したいという衝動に駆られる。
仮にできたとしても、そこに本当の無はないだろう。

つまずいて、泣いて喚いて寝転んで、それでも立ち上がれる人だけに、本当の無が訪れるのだ。
自分の人生だ。たくさん恥をかき、魂をしっかり把持(はじ)していこうではないか。

 

P.S.
蟻(有り)の思いも天まで届く。

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