Hira2’s.diary

そらはいつだって淡々としている――。

拝啓、あさっての貴方へ。

2017/01/10 0:00

仕事をすると、当然、お金が貰える。
好き嫌い問わず、時間を切り売りしているわけで、それに見合った価値ということになる。

しかし、「神に仕える」とか、「誰々に仕える」なんていった場合には、奉仕の概念に近いから、無償であっても、それ相当の価値を得ていることになる。

 

映画『デイ・アフター・トゥモロー』で、三人の男たち一人が吹雪の途中、建物の天井を突き破って落ちてしまい、間一髪ぶら下がることができた命綱を結局、我がで切ってしまうシーンがある。

すると、お茶の間では、「自分だったらどうするか」といった討論が始まる。
「絶対、切るよ」もいれば、「助けてくれるまで、ぶら下がっている」なんて、いろいろあろう。

本来の目的は、息子を助けに行くためだった。
だったらその父親が一人で行けば、よかった話である。

他の二人は、その父親に仕えたばかりに、死や危機に晒されたわけだ。

出発する時は、危険な目に遭うと分かっていながらも、潔さとか、仲間想いの絆みたいなところがあって、自分に酔いしれる要素が満載だ。

 

してみると、仕えた当初の勢いを持続することは、もの凄く難しい。

というか、力の作用は、常に均等だから、
一人が、1.5倍の力を出したら、他の仲間が-0.5倍分、負の力を惹起(じゃっき)する。

現実の社会でも、人に頼まれたことが無償だったら雑にするとか、
逆に有償だと、いつでもそれを返上することで辞退できるとか、そんな安易な気持ちがどこかにある。
でも、始めた時の力は、辞めるときも同じくらいの力が要るのだ。

せめて、二年後の自分を見据えて動き出したい。

仕える以上は、相手の気持ちと対(つい)になれるかどうかにかかってくる。
だから、対価というのだろう。

 

P.S.
三人、別々のルートで行けば、みな生還できた。

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